嘘八百を暴くシリーズその1
皆の衆!
ランキングをはじめとする、世間のスピ界に溢れておる、
嘘八百、ぺ天使の類の実態を白昼にさらすシリーズを始めるぞ!
まずは「瞑想」についてじゃ!
安易に瞑想を勧めたり、瞑想会を開いておる者がおるが、
殆どが「魔界、魔境」に陥っておる。
はっきり申そう!
それらの者が言うておる瞑想はただの「迷走」に過ぎん!
「瞑想」はとても危険なものなのじゃ!
「禅」の修行においても最も強く戒められておるものじゃ!
以下引用
魔境(まきょう)とは、禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態のことを指す。ユング心理学で「魂のインフレーション」と名づけられた状態だという指摘もある。
日蓮は、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」と教えている。これは、瞑想中に神格を持つものとの一体感を持った結果「自分はすごい人間だ」と思い込んでしまい、エゴが肥大してしまうのを防ぐ、すなわち魔境に入ってしまう状態を防ぐための教えだとされている。
実際に光のようなものが現れても、それは単なる脳内の視覚野の発火現象であるという意見もある。
野狐禅(やこぜん)とは、禅宗において、禅に似て非なる邪禅のこと。「無門関」第2則の「百丈野狐」に出る語である。野狐(やこ)は低級な妖狐の1つを意味する。野狐精(やこぜい)、野狐身(やこしん)、また生禅(なまぜん)ともいう。
「仏法は無我にて候」として真実の仏陀は自我を空じた無我のところに自覚体認されるはずのものなのに、徒(いたずら)に未証已証(みしょう・いしょう、いまだ証していないのに既に証覚を得た)という、独り善がりの大我禅者をいう。いわゆる魔禅の1つ。
「無門関」第2則の「百丈野狐」の公案には、前世に百丈山にいた老人が、かつて覚った者は「因果に落ちない」と言い、「空」の境涯のみを持ち上げて因果の理法を無視したが為に、五百生の間、野狐身の畜生道に堕したという話がある。この話からいったんの「空」の無相の境涯に捉われて、真に妙有・妙用(みょうう・みょうゆう)の境地に達しないのに、自ら覚り終ったとする独り善がりの増上慢(ぞうじょうまん)の禅をたとえて言ったものである。
殆どの者が、光と闇のパーセンテージが光49%闇51%の現状でじゃ、
やたらと「瞑想」により、気道を広げれば、その汚れた気道をめがけて、
不浄のものが押し寄せて参るのじゃで。
日々しっかりと「祝詞」「真言」で不浄を焼き払い、祓うことにより、
神仏との導管を設置せし者の「メディテーション」の場合は、
神仏のエネルギーが流れ込むのじゃが、
日々何の禊も、審神のエネルギーも磨いて居らぬものが、
何やら神秘的なものを求めて、おのが「気道」を開放すれば、
そこに殺到するのは、同じ禊きれておらぬ「不浄の存在」ばかりじゃで。
ネット界でも、現実の商売でも「瞑想」を勧める者は、
「神仏」を装った「野狐」の類に化かされ、
己が「神仏の使い」になったと「勘違い」を起こした輩が、
殆どじゃ!それらの者が指導する「瞑想」や「瞑想会」は、
邪鬼、邪霊が押し寄せ、瞑想本人の精神を食い荒らす。
あわれ精神分裂者の誕生というわけじゃ!
爺の言うことが信じられなければ、
ネットで「瞑想 危険」で調べてみるが良い!
いかに危険に満ちた「行為」であるかわかるじゃろて!
真の神業者は「瞑想」から入るような指導は絶対にせぬものじゃ!
言霊の禊、行いの禊、肉体の禊を徹底して行った後、
邪霊、邪鬼、動物霊の低級波動と、
真の高貴な「神仏の波動」との歴然たる違いを獲得させてから、
真の瞑想「神仏のエネルギー」との交わり、
「神人合一」「仏との融合」を教えていくものじゃで!
素人が「邪霊」に騙されて、哀れな犠牲者を増やしておるのが、
世の「瞑想」の実態じゃ!
君子危うきに近寄らず!